MARU。architectureの最新作、松原市新図書館にいった。とてもよかったので松原市新図書館の勉強スペースでそのまま思ったことをメモ。
まずこれは外観の様子。赤みを帯びたカラーコンクリートの塊が水の上に浮いている。新しい建物だと期待して向かったものの、たどりついてみると何十年も前からそこに存在していたような存在感に圧倒された。カラーコンクリートのムラがいい味を出している。高見ノ里駅から歩いて向かったが、周辺の街並みが軽めの万引き家族的世界観というか、味わいのある街並みであったため、周辺の街並みからちょうどいい距離感でたたずんでいるように見えた。大阪は年平均雨量が全国平均に比べて少なく、また河川が短小なために、古くから農業に用いるため池が数多くつくられたようで、今回の計画でもかつての農業用地としての街の歴史を尊重して建物が作られている。
ため池に面した勉強スペースの天井には水面の揺らぎが反射されて、動きのある空間が作られている。この開口部は西側に面しているため、日が経つにつれてこのゆらぎはどんどんと室内の奥深くまで伸びていく。
水面に浮かぶモノリスのなかにはS造のスラブが幾重にもかさなりあっている。階段まわりがとても気持ちよく、子供用の空間が1Fではなく最上階に設けられているため、館内にこどもが階段を駆け上っていく声が響いており、賑わいのある明るい図書館になっている。勉強用のスペースがいたるところに設けられており、本を借りるのと同じ比重で図書館の中で快適に勉強することを意識して場が作られている。こどもの声が気になる場合は個室として遮音されている空間も用意されている。
この写真を見てわかる通り、モノリスの開口とスラブの位置関係は同期されておらず、コンクリートの塊の中に自由にスキップフロアが配置された空間となっていて、スラブのコーナーにライティングが施されているため床がモノリスとは独立して浮遊しているような世界観になっている。
明るく開けた階段回りと対照的に、ボリュームの北側にはエレベーターコア周りにせまい通路や階段が設けられており、これらが動線のなかに組み込まていることで回遊性のある多様な空間体験が得られてとても気持ち良い。
大開口が設けられているというわけではないけれど、モノリスに空いた小さな開口やテラスが動線上にこれでもかというほど配置されており、上階に歩みを進めても足元に外部空間を感じることができる。外部を見渡しても足元に植栽が用意されているため、水面上にいながらも地面とのつながりを感じることができ、ふわふわしたキモチになることがなくなんだか安心した空間体験。
これが個人的にいちばん好きな写真。この写真に象徴されているように、”ここ”、”あそこ”、”そと”の3つの要素を常に感じることができる空間になっていて、”ここ”から”あそこ”に移動すると、”そと”を定点として、これまで”ここ”だった場所がこんどは”あそこ”に代わっており、風景として見ていた世界に自分が足を踏み入れると、自分がいた場所が今度は風景として感じられ、そのことによって自分も風景の中にいることに気づくという裏表が反転する空間体験を連続的に感じることができる。
サインもとても分かりやすく、配管や閉架書架を表に出して建物を構成する要素全員で空間を作ろうとする意識を感じる。感動しすぎてながながと文章を書いてしまったけれど、こんな建築の近くに住んでみたい。
ある晴れた日のカレー屋で
ある日、土佐堀川沿いにあるカレー屋さんに入った。整理券をもらわないと入店できないカレー屋さんで、待ち時間は北浜をブラブラして時間を潰した。やっと自分たちの時間が来て席に着いた。テーブルの上には1枚の紙が置いてあった。
【オクシモロン】= 反対の意味の語を組み合わせることにより、奥行きのある印象を生み出す語法のこと。例として「永遠の一瞬」「公然の秘密」など。「真剣な遊び心」や「寛容なこだわり」をそなえた見方を忘れないように、また、いろいろな個性を生かして一層深い味を引き出すことができますように。そんな意味を込めています。
そう、このお店の名前はオクシモロン。なんだか丸っこくて可愛いらしい言葉の響きと同時にこの単語がもつインスピレーションの壮大さを感じた。
そもそもこのオクシモロンは修辞学の世界で撞着語法(どうちゃくごほう)と呼ばれるもので、「oxy」 はギリシャ語で「鋭いはっきりした」、「moron」 は「鈍いぼんやりした」という意味を持ち、オクシモロンという言葉自体がオクシモロンなのである。古くはシェイクスピアの戯曲などルネサンスの時代からこの用法が見られるそうだ。
オクシモロンによる脱構築
このように”オクシモロン”は対立する2つ要素を橋渡しする修辞法であるが、ふと、林修の授業を受けたときに、人間の思考は「類比」「対比」「因果」の3つのパターンしかないと聞いたのを思い出した。そのなかでも「対比」は、ときに暴力的なまでに私たちの脳内を支配する思考パターンの1つである。たとえば機械と人間、アーリア人とユダヤ人といった行き過ぎた二項対立が結果としてモダニズムやホロコーストを生んだように、二項対立に固執しすぎることなく二項対立で捉え切れない要素に目を向ける姿勢(=脱構築)こそが大切だろう。この姿勢こそが20世紀哲学を支配した脱構築という考え方である。
“学習はさまざまな二項対立関係を学ぶことで成立するが、脱構築とは二項対立の矛盾を突き、二項対立では割り切れないものを発見することである。そもそも二項対立関係には暴力的階層関係がひそんでいるが、脱構築では両義的な言葉や主張と行為の矛盾に着目して階層関係を逆転したり無化する。二項対立では見えてこなかった盲点を発見しながら思考し続ける営為が脱構築操作なのである。(高校生のための現代思想エッセンス 大橋洋一)”
ちなみに、脱構築について面白い記事を見つけたので話を脱線させると、ある記事によれば中国の”太極”は脱構築の思想を的確に表現したダイアグラムであるとのこと。例えば、男女という二項対立において”男性の中に女らしさが存在して、女性の中に男らしさが存在する”ことがあるように「内側の内側には外側があって、その外側を内側の外側には追い出せない」という脱構築の核心を太極の図は表している。
この”脱構築”と”二項対立”の関係を踏まえて思うことは、”オクシモロン”という修辞技法が「2つの対立した世界間の壁を打ち壊す」という意味において日常社会からの脱構築を図るための1つのツールとなりうるものであり、広い意味で捉えると、オクシモロンという技法は文学のみならず実空間にも応用することができるのではないかと考えられる。
では実空間におけるオクシモロンがあるとしたら、それはどのような空間をさすのだろう。
実空間におけるオクシモロン
ここで、ムトカのN邸について考えてみたい。
この建築は”少し窮屈な西側の住宅街の風景”と”谷に沿って遠くまで見通せる東側の風景”という2つの要素に対して、特段区別をつけずにシンメトリーなプランでつなぐことで成立している住宅である。
このN邸について青木淳さんとムトカのお2人は以下のように語っている。
“青木 淳:外観は完全なシンメトリーで、中へ入るとさらに前後の……、つまり2軸シンメトリーですね。非常に構成がわかりやすくて、悪くいえば図式的なんだけれど、見た印象はそれを感じない。そのギャップが一番いいところかと思いました。
村山 徹:シンメトリーについては、敷地の第一印象が東側に抜けていることだったので、西側のファサードも同じ顔にしてどちらの眺望も生かすことにしました。街並みにきちんと合わせた建ち方をしないといけないと思っているので、外観への意識は強くもっています。
加藤亜矢子:補足すると、ここで私たちがはじめにつくったルールがシンメトリーでした。でも村山君経由で青木さんから学んだこととして、「ルールをつくっても、それを100%守る必要はない」というのがあります。だから階段やキッチンはベストと思われる場所に置いていて、それによって実際にはあまりシンメトリーを感じさせないのかもしれません。”
敷地の周りにAとBという外部の雰囲気があったとして、AにはAを活かすための空間を、BにはBを活かすための空間を作りがちであるけれど、ここでは等価に2つの空間を扱っている。脱構築的な建築というと建築史的に誤解を生んでしまうけれど、”状況が異なる2つの周辺環境の間にあるグラデーショナルな豊かさ”に目を向けている点でこの建築は脱構築的であり、その空間性にとても魅力的に感じる。(こんな空間いつか作りたい…)…